野良犬。故郷に帰る。

煮え湯を飲まされ、辛酸を舐め、砂を噛むような思いをしても、故郷に帰る夢は諦めない。

その日 何が起きていたのか 9

父は工場を出ると、二階の事務所に戻った。

父個人名義の通帳数冊と、印鑑を探す。


通帳のある場所はすぐにわかったが、

どの通帳の印鑑がどれなのかがわからない。


自身の会社の財務や経理

全て自身の姉に任せていた事が悔やまれる。

「血を分けた姉弟?」

実の姉に会社の預金を全ておろされ

自宅を売却されたであろう現実を思うと

そんな言い回しが酷く滑稽に思えて

父は口元を歪ませる様に笑う。

もちろん、笑い声は無い。


各従業員の給与を二ヶ月分。

間違いが無いように何度も電卓を叩く。

父の個人名義の預金を全ておろせば

何とかまかなうことができそうだ。


金融機関で預金を降ろせるのは

15時まで。

おばちゃんの捜索願を出す時以来に

父は事務所の壁に掛けてある時計を見る。

13時を回っている


まだ何も話していない母と

私達姉弟が食事をしながら笑う声が

父の耳に届く。


父が気づかぬうちに、

私達姉弟は帰宅していた。

今日は修了式。

私達姉弟の帰宅は早い。


会社の事務所と自宅ダイニングは

同じフロア。

まるで世界が違うように

その空気は異なっていた。


個人名義の預金をおろしに行かなくては。

定期も含めて全て解約しよう。


通帳に対応する印鑑がわからないが

会社にある印鑑を全て持って行けば良い。


聞こえ続ける母と私達姉弟の笑い声に

父は我に帰る。


「じゃあ、ウチの家族は?」

一瞬、寒気がした。


寒気を打ち消すように、

父は首を激しく横に振る。


「従業員の給与だけは最期まで保全する。

  当たり前だ。俺は経営者」