その日 何が起きていたのか 5
父は法務局からの道を、自宅に向けてゆっくりと歩いていた。
もう走らないし、走る必要性も感じない。
頭の中は混乱し、足取りは重い。
会社の預金は全ておろされ、
自宅は売却されている。
ふと、会社にある現金を会社が持つ
3つの金融機関の口座に分けて振り込もうかとも考えたが
所詮、平時に会社内にある現金など小口精算用。焼け石に水だ。
父個人の預金を全て、会社の口座に振り込むことも考えた。
「いや...。まて。個人の預金を全て回しても、とても足りない。
万が一、倒産させるのならば従業員の最後の給与として保全しなくては...。」
父の頭の中に「倒産」の二文字が初めて浮かんだのは、
このときだったという。
少なくとも、今受注している仕事の納期をしっかり守るのは当然としても
とても新しい仕事を受注している場合ではない。
現在受注している仕事を終わらせるには2~3日は掛かるだろう。
連続して起こる信じられない出来事の真っ只中にいながら、
意外と仕事のことを冷静に考えている自分に気づき、父は顔をあげた。
運命に翻弄され、憔悴しきった顔にわずかながら血色が戻る。
事実を事実として認め、やるべきことをやるしかない。
眦を決して、腹を括った。
自宅に向かう歩みにも力が入る。
腹の中に真赤に焼けた石炭があるように、胃が痛む。
でも、もう前に進むしかない。