野良犬。故郷に帰る。

煮え湯を飲まされ、辛酸を舐め、砂を噛むような思いをしても、故郷に帰る夢は諦めない。

その日 何が起きていたのか 8

従業員達は動揺していた。

あたりまえだ。

突然、会社の経営危機を伝えられたのだ。

社長である父があまりにも無責任に見える。


しかし、心にやましさがある人間は

必ず目をそらす。良心がある人間ならば

嘘をつく時、

相手の目を見ることができないのだ。


父は目をそらさない。

従業員の顔を見据えている。


従業員の一人が、父の目を正面から

見据えて聞き返す。

「本当に社長も今日知ったんですか...?」



「そうだ。今朝知った。」



「全部本当なんですか?」



「本当だ。被害の全容は

  まだ全て把握出来ていない。

 でも、今話した事は全て本当だ」



「社長のお子さんや、奥様は?」



「家内や子供達には、まだ話していない。

   子供達はまだ学校だ。家内と子供達は

   俺が守るから大丈夫だ。

  それよりも皆、自分の家族を守る事を

  考えてくれ。明日、今月分の給料と

   来月分の給料は現金で渡す。

  状況が把握できていない今、

 無責任に会社に残ってくれとは言えない」


「...。」

印刷機が回っていた時とは

真逆の静寂が工場をつつむ。

そこに居た全員の想い、

自身の生活や、仕事や、会社への

思い...。


色々な思いが、

虫眼鏡で日光を集めて黒く塗った

紙を発火させるようと絞り込まれ

温度が上がり切った様に思えた刹那、

一人の従業員が口を開く。



「...。わかりました。社長を信じます。

今の仕事は2日で終わらせて、自宅待機します。私は社長から何らかの連絡があるまで、

次の職場は探しません。」



「ありがとう。本当にありがとう。

   とても仕事に集中できる状況じゃないが

   何とか頼む。

   俺は、現状の把握を最優先でやる。

  各自、持ち場に戻ってくれ」



「はい...。」


この時の父と従業員とのやりとりは、

約20年後、私が二十代後半の頃、

私の父を信じると言って下さった

従業員の方が

画家として個展を開いている事を

私が新聞で見つけて、会いに行った時に

聞かせていただいた。


少しずつ、

カケラを集めるように。

「その日」は40年近い時を経て今尚、

私の中で発掘作業が続いているのだ。