野良犬。故郷に帰る。

煮え湯を飲まされ、辛酸を舐め、砂を噛むような思いをしても、故郷に帰る夢は諦めない。

「副お父さん」3

12日振りの自宅が近づくにつれて

私は何処かいつもと違う自宅の

雰囲気を感じ取り、走るスピードを緩めた。


当時は土曜日も通常通り働く事が

当然だったのだが

物心ついた時から聞き慣れている

印刷機が動いてる音がしないのだ。


私の走るスピードは落ち続け、

自宅の前に着いた時には

もう歩いていた。


息が上がり、私は肩を激しく上下

させながら自宅を見る。


静まり帰っている自宅。

ビルトインガレージにいつも

駐車されていた

父の会社の二台のバンもない。


私は一階の印刷工場の重い引き戸を開ける。

当時7歳の私には相当力のいる作業だ。



「お父さん! ただいま!」



引き戸を開けると

そこには、顔にインクを着けた父親と、

汗を流しながら働く従業員の姿が

あると疑っていない私は

いつものように大声で帰宅を告げた。








そこには何もなかった。


そこには誰も居なかった。


インクや機械油で所々汚れた

素っ気ないコンクリートの床だけが

そこにあった。



入り口から入って左側にあった

活字が沢山詰まった棚も。


右側にあった事務机も。


事務机の隣にあった冷蔵庫の中には

コーラ等の炭酸飲料が常備されており

時折、従業員の方々が

「お父さんには内緒だぞ。」と

炭酸飲料を飲ませてくれるのが私の

密かな楽しみだった。




その冷蔵庫もない。


その奥に3台並んでいて

大きな音を立ていた印刷機も。




なにもなかった。


南西に向いた工場には

4月の柔らかい陽射しが差し込み

7歳の私の影はコンクリートの床に

長く影を引いている。


ついさっきバスを降りた

3桁国道を通る車の音が

かすかに聞こえる。




想像もしていなかった出来事に

私は立ち尽くす。






少しの間を置いて


「...。お父さんが中にいるから

   行くわよ...。」


振り向くと後から歩いて来た

母が姉と手を繋いで立っていた。


ちょうど逆光になり

母と姉の表情を伺うことはできない。




私は何か見てはいけない物を

見てしまったような気がして

慌てて工場の重い引き戸を閉める。




母と姉は、

工場横にある自宅への玄関を開け

一足先に自宅に入っている。


私も続いて玄関をくぐった。

二階に続く階段が薄暗く見える。



3月24日に

母に強く手を引かれながら降りた、

あの階段だ。

母と姉の姿はもう見えない。


いつもより薄暗く見えた

その階段に

私は怖さを感じ

怖さを振り払うように

小走りに昇り始めた。