野良犬。故郷に帰る。

煮え湯を飲まされ、辛酸を舐め、砂を噛むような思いをしても、故郷に帰る夢は諦めない。

「家を返して下さい」 2

「知ってる?

   知ってるって、この買主の

   大林【仮名】って人をか?」

 

父は予想もしていなかった

母の言葉に驚く。

 

「ええ。多分間違いないわ。

   住所と名前。

   この買主、私の幼馴染のお父さんよ...。

 小さい頃、この人に遊んでもらった記憶もあるわ...。」

 

父は母から売買契約書を受け取り

買主の欄に目をやる。

 

母は中学生の頃に引っ越しているが

生まれてから中学生までは

私が生まれた区の西側に隣接する区に

住んでいた。

それは父も知っていた。

 

確かに、買主の住所は

母から聞いたことがある、

母が中学生までを過ごした住所の

すぐ近くだ。

 

自分の家を実の姉によって、

妻の幼馴染の父親に売却されて

妻にその事を知らされる。

 

 

「事実は小説よりも奇なり」

禍を起こした悪魔は

そんな言葉ですら陳腐に感じてしまう程

巧妙な罠を張っていたようだ。

 

しかしこの巧妙な、否、巧妙すぎるが故に

罠は一つの綻びを見せ始めていた。

 

綻びを見つけたのは母だ。

凝視しなくては見つけられないような

綻びを見つけた母は、一つの策を思いついた。

まるで道理に適っていない、ある種滅茶苦茶な策だ。

 

父は、黙って母を見詰めている。

 

 

 

「.....。お父さん、私....。」

 

母が口を開く。

 

「大林さんに会いに行って、一旦この家を返してもらうように

 お願いするわ。

 家を一旦返してもらってから、近隣の相場の金額で売却して、

 大林さんに最優先で、この家を購入した金額に上乗せして

 お返しする。

 で、残ったお金でお姉さんが作った借金を返済すれば...。」

 

父は呆れたように返す。

 

「それはそうかもしれないが...。

 まず大林さんがその案を呑んでくれるわけが無いだろう。

 大林さんは俺たち家族が出て行った後

 この家を売却すれば、もっと儲かるんだぞ?

 上乗せして購入金額を返す?

 そんな不利な条件を大林さんが呑むか?

 俺ならそんな滅茶苦茶な条件、絶対に飲まないぞ?」

 

父はあくまで正論を話す。

あまりの滅茶苦茶さに父の声は、わずかに怒気すら帯びている。 

 

母の頬を涙が伝う。

 

父と母、二人きりのダイニング。

二人は6人掛けのダイニングテーブルに向かい合わせに座っている。

 

ほんの数日前まで、私達家族4人とおばちゃん、

その息子の、お兄ちゃんの6人で賑やかな夕食を取っていたダイニングだ。

それが今、おばちゃんは蒸発。

私達姉弟は中野のおじちゃんの家に避難し

お兄ちゃんは、3月24日の夜に帰宅した際、

父が事情を話し

「しばらくはここに帰ってくるな。 

 友達の家に泊めてもらうんだ...!」

と避難させていた。

 

賑やかだったダイニングは、

哀しいくらいに広く感じられる。

 

母がこみ上げてくるものを我慢できなくなったように

口を開く。

 

「そんなことは私にだってわかっているわ。

 確かに滅茶苦茶な頼みよ。

 でも頼んでみなくちゃわからないじゃない?!

 このまま出て行ってどうするの?

 何もかも取られて、借金まで背負わされて

 子供達はどうなるの?

 まだ8歳と7歳よ?

 何もしないで、このまま出て行くのは

 私は絶対に嫌...。

 お父さんが頼みに行っても、大林さんは

 聞いてはくれない。

 でも、小さい頃を知っている私がお願いしに行けば

 可能性はゼロじゃない...!!」

 

 父は無言で母の顔を見詰める。

 

 父は生前、私に

「お前の母親は、腹を決めたら、俺より毅いぞ...。」

とよく言っていた。

父が言っていた「母が腹を決めたら」とは

この時の事を言っていたのかもしれない。

 

父が口を開く。

「勝手にしろ...。」

 

 

 

「勝手にします...。」

 

母はそう応えた。

時に1980年3月26日。

「あの日」から2日後。

母は、禍を起こした悪魔に立ち向かうことを決めた。

勝算は無かった。

「匹夫の勇」だったのかも知れない。

しかし、前に進む事を決めたのだ。