野良犬。故郷に帰る。

煮え湯を飲まされ、辛酸を舐め、砂を噛むような思いをしても、故郷に帰る夢は諦めない。

「家を返して下さい」9

母は途方に暮れながら家路を急ぐ。

自宅方面に向かうバスに乗り込んだ

記憶すらない。


1980年3月27日。

あの日からまだ3日しか経っていない。


もう何年も経過しているような、

時間が止まっているような妙な感覚に

母は包まれていた。


大林さんに自宅の一時返却を願い出る。


父が言うように滅茶苦茶な策だったの

だろうか?


母にはその答えがわからなかった。

そもそも答えなどないのかも知れない。


正しい手続きを踏んで契約を結び

私達家族の自宅を購入した

大林さんからしたら

一時的にだとしても購入した家を返せ

とは甚だ迷惑な話だ。


様々な思いを巡らせているうちに

降りるべきバス停を乗り過ごしてしまい

終点の駅まで来てしまった。


駅から自宅までは徒歩10分も掛からない。

夕闇がもう迫っている。


帰宅するために駅へと向かう人波に

逆らうように母は自宅に向かう。


自宅前に着くと、

先日、母が見た自宅の風景とは逆に

二階と三階の灯りは消え、

一階の工場の灯りがボンヤリ点いている。


会社の仕事は3月26日で全て終わった筈だ。


母は不審に思い、一階工場の大きな

引き戸を開ける。



中では父が一人。

こちらに背を向けて

Tシャツに作業ズボンで印刷機

向き合っている。


Tシャツの背中は汗で父の肌が透けている。

剣道とボクシングで鍛えた

父の広い肩幅と背中が

今は小さく見える。


「...。ただいま...。」

母は小さく見える背中に声を掛ける。



「...。おう。」


父が振り返える。

父の顔には印刷で使うインクが付いている。

疲れが父の顔にありありと見て取れる。


母が口を開く。

「土下座して大林さんに頼んだけど

   やっぱり無理だったわ...。」




「そうか...。やっぱりな。

   大変だったな。

   ありがとうな。

  何か別の方法を考えよう...。」


父はまた母に背を向けて

印刷機に向き合う。


父の背中に母が問いかける。


「お父さんは何をしてたの?」




「俺か?

   印刷機の掃除だ。

   この機械も、既に人手に渡っている。

   使用料を払えない以上、

   手放さなくちゃならない。

   ずっと俺と一緒に頑張ってくれた相棒だ。

   せめて最後はピカピカにして

   次の持ち主に託したい...。」


 父は背を向け、掃除をしながら続ける。


うなじに汗が流れている。


「なあ...。

    これから先、正直どうなるか

    分からん。

    お前が望むなら、別れよう。

    今回の件は、俺の血族の不始末だ。

    お前と子供達には関係ない話だ...。」


私達家族を愛するが故の父の選択だった。



「お父さん?

   別れてどうなるの?

   いつも幸せなわけじゃないでしょ? 

   苦しい時に力を合わせるから、

   力を合わせる事が出来るから

   家族なんでしょ?

   もう、そんな悲しい事を言わないで。」


母が父に悲壮な決意を告げた時

工場に電話の音がなり響いた。