野良犬。故郷に帰る。

煮え湯を飲まされ、辛酸を舐め、砂を噛むような思いをしても、故郷に帰る夢は諦めない。

「副お父さん」2

1980年4月5日 土曜日。


母が私達姉弟を迎えにくる日の 

朝を迎えた。



3月24日から12日間、

母の顔を見ていなかっただけなのに

母と対面するのに、僅かな緊張が

あった事を覚えている。


当時、土曜日は皆仕事をしていた。

中野のおじちゃんが出勤した後、


私達姉弟は、

中野のおばちゃん、中野のお姉ちゃんの

四人で朝食を取った後

自宅に帰る仕度を始めた。


洋服や、滞在中に買って貰ったオモチャを

紙袋に入れ、ずっと私達姉弟の寝室として

使わせて貰っていた和室で母を待つ。


私も姉も無言だった。

中野のお姉ちゃんが練習に使っていた

ピアノが隣の洋室のドアから

わずかにその艶やかな黒い脚を見せていた。



「...。ごめんくださぁい...。」


玄関から、聞き慣れた母の声が

聞こえた。


「...!」

私と姉は脱兎の様に

玄関に走る。


母の顔が目に入るや否や、

姉と私は争うように母に抱きつき

声をあげて泣き出す。


「バカバカバカ!

   お母さんのバカ!」


抱きついた私の顔の左側にある

母の首筋に、優しい母の匂いを求める。



「ゴメンね!

   寂しかったね。

   悲しかったね。

   本当にゴメンね...!」


母は私と姉の二人をまとめて抱きしめる。


母は続ける。



「中野のおばちゃんに、お礼を言わなくちゃ

   いけないから、ちょっとだけ待ってて。」



「嫌だ!嫌だ!

  またお母さんがいなくなったら

  嫌だから僕は離れない!」


甘ったれの泣き虫と言われていた

私が母にしがみつく。


姉も母の足にしがみついたままだ。


私達姉弟の執念に降参した母は

私達姉弟を連れ立ったまま、


中野のおばちゃんがいる茶の間に入ると




「お義姉さん...。

   ようやく、色々と目処が立ちました。

   今回は本当にお世話になりました。

   子供達を預かって下さって

   ありがとうございました...。」


中野のおばちゃんに頭を下げた。



「...!やめて、お礼なんて。

   こう言う時に助け合えるのが

   親戚でしょ?

   ...。

   でもこれからが大変ね...。

   大丈夫?」




「ありがとうございます。

    大丈夫です。

    一家四人で寄り添って生きて行きます」





私達姉弟は母と手を繋ぎ

バス停に向かう。


漸く素直に喜ぶ事が出来た。

やっと家に帰れる。

お父さん、おばちゃん、お兄ちゃんに

会える。


3月25日に遊ぶ約束を破った

友達にも謝らなくちゃ。


私はそんな事を考えながら

自宅に向かうバスに乗っていた。



3月24日の夕方、中野の実家に向かう

バスに乗ったバス停の反対側にある

バス停で降り、自宅に向かう。

見慣れた街並みが見えて来る。


やった!

やっと帰ってきた。


安堵の気持ちに包まれた私は、

母の手を離して走り出す。


中野で買って貰ったオモチャが入った

紙袋をガチャガチャ鳴らし


「そうだ!

   今日はお父さんと一緒にお風呂に

  入って、このオモチャで遊ぼう!

   超合金だから、お風呂で遊んでも

   ヘッチャラだ!」


  と考えた。



でもその願いは叶わない。

その後、私が家に浴室があるという

幸せな住環境を手に入れられるのは

この15年後。


家内と結婚し、2DKのアパートを借りる時

まで待つ事になるのだ。




「副お父さん」1

「お前は男だからな...。

    家や、お父さんに何かあったら

    お前は命をかけて

    お母さんとお姉ちゃん、

    そして家を守るんだぞ...。

    

    お前はこの家の副お父さんだ...。

     その事には理由なんて無いんだ。」


今日の男女平等の観点からしたら

時代錯誤も甚だしい言葉であり

年端もいかない子供に圧力をかける

行為として非難されるかも知れない。


しかし当時、

昭和10年生まれの父から事ある毎に

私はそう言い聞かされていた。


父は煙草のにおいがする

ゴツゴツした「男」の手で

私の頭を撫でられながら、

私の目を見つめる。


私も父の目を見つめ

大きく頷きながら、幼心に


「僕は副お父さん...。

    僕は副お父さん...。」


と心の中で繰り返していた事を

今でも思い出す事が出来る。








「貴方達!

    明日のお昼、お母さんが

    貴方達を迎えに来るわよ!

     良かったわね!」


その日は急に訪れた。


1980年 4月4日 金曜日の夕方

東京都中野区  父の実家。


中野のお姉ちゃんとトランプに

興じていた私達姉弟

茶の間に入って来た

中野のおばちゃんが明るく声をかける。


唐突過ぎる吉報は

当時7歳と8歳だった私と姉を混乱させる。


期待していた反応と違う

私達姉弟の反応に、


中野のおばちゃんは、

もう一度明るく言う。


「明日のお昼に、

   お母さんが迎えに来るのよ!

   お家に帰れるの!」



私達姉弟が、

事態を理解出来ていない事を察した

中野のお姉ちゃんも

続けて明るい声を発する。



「やったね!

    お家に帰れるね!

   学校が始まったら、三年生と二年生だ!」


トランプの束を持ったまま

キョトンとしていた私達姉弟

ようやく事態が把握できた。



中野のおじちゃん家族の厚情により

楽しい春休みを過ごさせて貰っていたが

やはり、

家が、父が、母が、おばちゃんが

おにいちゃんが恋しかった。


そもそも、何故この春休み中

中野のおじちゃんの家に来ているのか

私達姉弟は、その理由さえ知らないのだ。


私達姉弟は、込み上げてくるような

喜びを感じてはいたが

良くしてくれた

中野のおばちゃん、中野のお姉ちゃんの手前


あまり喜んでは悪いような気もしていた。


でも

明日になれば、お母さんが迎えに来る。

家に帰れる。


それは私達姉弟にとって、

嬉しくもあり、

現実の全てを見せつけられる

生々しい出来事であった。


姉と私は、もはや慣れてしまった

池のポンプの音を聞きながら

眠りに落ちた。


「家を返して下さい」11

大林さんが自宅の一時返却を

受け入れてくれた翌日


1980年3月28日

母は再び

バスで大林さんの自宅に向かっていた。

昨日の電話で、大林さんに自宅に来るように

言われていたのだ。


母も大林さんの気が変わらぬうちに

話を纏めたかったし、

母にとっても好都合だ。


前日とは全く異なる心境で

大林さんの自宅の玄関をノックする母。


現状を考えると

晴れやかとは言えないまでも

幾分、心は軽い。


焦げ茶色のドアが開く。

昨日より少し穏やかな目の大林さんが

顔を見せる。



「こりゃ どうも...。」


母が応える

「本当にありがとうございます。

    無茶なお願いを聞き入れて下さって...。


    本来なら主人も連れて来たかったのですが

    主人は残務処理がありまして

    本日は失礼しています。


    主人から、くれぐれも大林さんに

    お礼を伝える様、申しつかっています。」



「まあ、入りなさい...。」


大林さんは背を向けて家の奥へと向かう。

母は慌てて靴を脱ぎ


大林さんの背中を追う。


「どうぞ...。」


通された応接間は

エンジ色の毛足の長い絨毯

ベージュ色の塗り壁には

幾つかの額装された絵画が

かけられている。


深緑色のソファに

母と大林さんは向かい会って座る。



大林さんが口を開く。



「条件は昨日の通り。

   ただ、キチンと自宅の所有権の

   移転登記をしている暇も惜しいでしょう?


  これは提案です。

   異議があれば断わってください。


  昨夜、知人の不動産屋に

  奥さんの言う、市場価格を聞きました。


   私が買い取った金額の約9倍。

   ****万円だそうです。

   

  その金額なら、

   借入金を精算できますか?」



「はい...。出来ます。

   出来ると思います...。」


母が応える。




「...。わかりました。

   私は、市場価格から当初の購入価格と

   奥さんが言っていた今回の件の

    謝礼金を足した金額を引いて

   残金を

   御主人の会社の口座に振込みます。


   所有権に移転に時間が掛かるより

   その方が良いでしょう?

   

   その提案で如何ですか?

   

   良ければ、明日

   残金を振り込みますよ。」

   


母には断る理由はない。



「ありがとうございます...!

    恩にきます。

    家賃が払えなくなる

    4月20日迄に必ず家を明け渡します。


    落ち着いたら、家族全員で

   お礼に伺いま...。」


母の言葉を遮り

大林さんは苦笑いをする。


「...。いや。

   お礼は結構。

   それよりも、貴女の様に捨て身で

   交渉に来るような

   恐ろしい女性の顔は

   金輪際見たくないですよ...。


   礼を言われる様な事をした覚えは無い

    ですが

    御家族、どうぞお元気で...。」



母は深緑色のソファから立ち上がり

深々と頭を下げる。



母は禍を起こした悪魔に

一矢報いたのだ。





「家を返して下さい」10

電話の置き場所に近かった母が

受話器を取る。


「はい...。○○印刷です。」

もう父の経営する印刷会社が

倒産する事は決定的とは言え、

今の段階では瀕死の状況でも

存続している会社だ。



電話の相手は不機嫌そうに話し始める。




「大林です...。

   奥さんですか?

   今日お願いされた通り、自宅を一旦

   お返ししますよ。


   貴女の後、娘も私の所に来て

  土下座しやがったんです。


 全く商売あがったりですよ。


 私の様な高利貸しにも

 人間の心が残ってたんでしょうな。

 私の今後の反省と戒めです...。


 で、貴女が仰っていた市場価格とやらで

  私がもう一度、ご自宅を買いますよ。

 私の最初の購入金額に色を付けて返して

 貰う事を前提にね。


そうすれば私にとっては

相当な値引きをして貰って

貴女の自宅を買うのと同じ意味合いだ。


得は減っても損は無い。


これからは、自分の周りと縁が無い

不動産か、しっかり調べてから

買うようにしますよ...。」





「...!!!」

  母の目から涙が溢れる。



「ありがとうございます...!

    ありがとうございます...!

    このご恩は一生わすれません。

    自宅の市場価格は

    不動産屋さんに確認して

    連絡させていただきます...!」



母の受け答えから

父も福音を察する。


例え市場価格で売却し直しても

無一文で自宅を追い出されて

経営者である父が無職になるだけの事だ。


人間は環境に慣らされる。

8桁に及ぶ借金から解放され

ゼロにする目処が立っただけで

それを福音に感じ

自宅を取り上げる

高利貸しに感謝する事が出来るのだ。


1980年3月27日  東京23区の北の外れ。

豊かすぎる今日とは違う

今日を生きる人間には

出来すぎた茶番にしか見えない


しかし生存の為の極限の闘いが

そこにはあったのだ。




私達家族に一筋の光が見え始めた時

舌打ちをする悪魔が次の策を練り始める。




「家を返して下さい」9

母は途方に暮れながら家路を急ぐ。

自宅方面に向かうバスに乗り込んだ

記憶すらない。


1980年3月27日。

あの日からまだ3日しか経っていない。


もう何年も経過しているような、

時間が止まっているような妙な感覚に

母は包まれていた。


大林さんに自宅の一時返却を願い出る。


父が言うように滅茶苦茶な策だったの

だろうか?


母にはその答えがわからなかった。

そもそも答えなどないのかも知れない。


正しい手続きを踏んで契約を結び

私達家族の自宅を購入した

大林さんからしたら

一時的にだとしても購入した家を返せ

とは甚だ迷惑な話だ。


様々な思いを巡らせているうちに

降りるべきバス停を乗り過ごしてしまい

終点の駅まで来てしまった。


駅から自宅までは徒歩10分も掛からない。

夕闇がもう迫っている。


帰宅するために駅へと向かう人波に

逆らうように母は自宅に向かう。


自宅前に着くと、

先日、母が見た自宅の風景とは逆に

二階と三階の灯りは消え、

一階の工場の灯りがボンヤリ点いている。


会社の仕事は3月26日で全て終わった筈だ。


母は不審に思い、一階工場の大きな

引き戸を開ける。



中では父が一人。

こちらに背を向けて

Tシャツに作業ズボンで印刷機

向き合っている。


Tシャツの背中は汗で父の肌が透けている。

剣道とボクシングで鍛えた

父の広い肩幅と背中が

今は小さく見える。


「...。ただいま...。」

母は小さく見える背中に声を掛ける。



「...。おう。」


父が振り返える。

父の顔には印刷で使うインクが付いている。

疲れが父の顔にありありと見て取れる。


母が口を開く。

「土下座して大林さんに頼んだけど

   やっぱり無理だったわ...。」




「そうか...。やっぱりな。

   大変だったな。

   ありがとうな。

  何か別の方法を考えよう...。」


父はまた母に背を向けて

印刷機に向き合う。


父の背中に母が問いかける。


「お父さんは何をしてたの?」




「俺か?

   印刷機の掃除だ。

   この機械も、既に人手に渡っている。

   使用料を払えない以上、

   手放さなくちゃならない。

   ずっと俺と一緒に頑張ってくれた相棒だ。

   せめて最後はピカピカにして

   次の持ち主に託したい...。」


 父は背を向け、掃除をしながら続ける。


うなじに汗が流れている。


「なあ...。

    これから先、正直どうなるか

    分からん。

    お前が望むなら、別れよう。

    今回の件は、俺の血族の不始末だ。

    お前と子供達には関係ない話だ...。」


私達家族を愛するが故の父の選択だった。



「お父さん?

   別れてどうなるの?

   いつも幸せなわけじゃないでしょ? 

   苦しい時に力を合わせるから、

   力を合わせる事が出来るから

   家族なんでしょ?

   もう、そんな悲しい事を言わないで。」


母が父に悲壮な決意を告げた時

工場に電話の音がなり響いた。








   

    





























「家を返して下さい」8

母は教会から

徒歩5分もかからない場所にある

神山さんの父親、自宅件工場の

買主である大林さんの家に向かう。


四半世紀前に住んでいた土地とは言え

自分が生まれた街の土地勘は

喪われる事無く、

小学生のころの記憶を頼りに

母は歩く。



記憶に残っている大林さんの自宅は

当時としては珍しい洋館で

入口はロートアイアンの門で飾られていた。


程なく、記憶の中に残っていた瀟洒な洋館

の前に母は到着した。

白いタイルに覆われた門柱に

「大林」の表札を見つける。


当時はインターホンのような便利なものは

少ない。


時間の経過により、

母の記憶よりも錆びが増えている

ロートアイアンの扉を開けると母は、

玄関に向かう。


ウォールナットだろうか?

焦げ茶色の重厚感あふれる玄関ドアの

前に立った母は意を決して

ドアをノックする。


「...。」

反応は無い。


「ごめんください...。

   蓮見と申します...。

   ごめんください...。」




「はい...。」

再びの沈黙の後、

少し高圧的な声が聞こえ、


焦げ茶色の扉が開く。


年の頃は70代だろうか?

坊主頭に、蟷螂のように細い体躯。

痩けた頬に、鋭い目が光る。


白いワイシャツに、

玄関ドアのように焦げ茶色のスラックス。



僅かに母の記憶に残る

神山さんの父親、

大林さんの姿からは程遠いが

面影はある。


間違いなく、大林さんだ。



「...。どなた?」


トーンを抑えてはいるが

さっき、神山さんが話す

受話器越しに聞こえた怒鳴り声の主に

間違い無い。



「...。お久しぶりです。

   蓮見です。

   教会の裏に住んでいた蓮見です。


  先ほど、娘さんからお電話が...。」


母の言葉を遮り、

大林さんは怒声を上げる。

目は母を射抜くように

一層鋭さをましている。




「帰れ!

  帰れ!帰れ!帰れ!

 私は、あなたのご主人の会社と

 契約して家を買い、貴方たち家族に

 貸しているんだ!

 

それを今更返せ?

馬鹿げているにもほどがあるだろう?」



母は続ける

「それは、主人の姉が勝手にした事で

 主人も知らなかったん...。」


またも母の言葉は遮られる



「そんなことは貴方達の落ち度だろう?

   私は個人間ではなく

  貴方の御主人の会社、

  つまり法人と契約したんだ!

   売買契約書にも賃貸借契約書にも

 ご主人の会社の実印が押してある!

  私に何の落ち度がある?

  家賃が払えないならば

 とっとと出ていけ!」


母は玄関前の白っぽい砂利に跪き、

頭を擦り付ける。



「...!お願いします...!

   自宅を購入された金額に

   お礼を添えて、必ず最優先で

   お返しします。

   

   お義姉さんは他にも借金をして

  蒸発してしまいました。


  家を一旦返して頂き 

  市場価格で売却すれば

  借金は返済できるんです...!

  無理は承知の上です。

  どうかお願い致します!」


叫びにも似た母の願い。


母は擦り付けた額を上げ

大林さんを見上げる。



蟷螂のような体躯の上の顔

痩けた頬

鋭い目が、怒りを抑えつけながら

敢えて冷静に、

冷たいナイフのように青白い言葉を

母の心につき刺す。



「そんな事をされてもね。

   これは義理人情の茶番じゃない。

   契約なんだ。

   とっとと帰れ。

   家賃が払えないなら  払えないで

   出ていけ...。

   そう言う契約だ...。」



「家を返して下さい」7

母の今の感情を逆撫でするような

優しい春の日差しの中

神山さんは実家の番号をダイヤルする。


一度回されたダイヤルがゆっくりと

戻る。

母にとってはもどかしく感じられた。


神山さんが受話器に耳を当てているが

呼び出しの音が漏れ、

母の耳にもかすかに届いていた。


白い教会の前を通る道は

それ程まで閑静だった。



何度目かの呼び出し音の後、

神山さんの父親が電話に出たようだ。


今から伝える事への緊張感からか

一瞬の間を空けて神山さんが口を開く。


固唾を飲んで母は神山さんを見守る。


「...。あっ?お父さん?

   私です。...。うん...。うん...。

  元気よ。...。大丈夫。心配しないで。」


神山さん自身、父親と話をするのが

久しぶりだったのだろうか。


一通りの近況報告から電話は始まった。

母はもどかしさを堪え

神山さんを見つめる。


数分間、他愛も無い話が

続き、話はようやく本題に入る。




「...。でね。お父さん、今日はお父さんに

 お願いしたい事があって、電話しました。

  

  お父さん、教会の近くに住んでいた

  蓮見さんを覚えてる?...。そう。

  途中で引っ越しされた...。

  そう...。お父さんも遊んでくれた事

   あったよね?...そう。私の友達よ。」


神山さんの父親は、母を覚えていてくれた。


神山さんが続ける。



「そう...。でね。


   お父さん、去年の10月に、お仕事で

    三階建ての工場付きの家を買ってない?

    そう、*区の駅の近くの...。


   ......。その家はね、

   蓮見さんの嫁ぎ先の家なの。


  ...。それは分かるわ。

  で、お父さんにお願いって言うのは

  蓮見さんの家を一回蓮見さんに

  戻して欲しいの。

 ...。わかる、わかるわ。

  お願いだから、話を最後まで聞いて...。」


母の耳にさっきの呼び出し音より

さらにハッキリと、神山さんの父親の

怒鳴り声が届く。



神山さんは続ける。


「だって、お父さんは凄く安い値段で

  蓮見さんの家を買ってるんでしょ?


   ...。わかるわ。

   だから、最後まで聞いて...。


  そのお父さんが買った金額に

   上乗せして返すって蓮見さんは

  言ってるの...。

   蓮見さんには、ご主人も

   小さいお子さんが二人  いるのよ...。

   何とかしてあげて...。」


しばらく神山さんの父親の

怒鳴り声が母の耳に届いた後

電話は一方的に切られたようだ。


神山さんが受話器を置くと、

何枚かの10円玉が

乾いた音を立てて

返却口に落ちる。


二人は顔を落とす。


「蓮見さん、ごめんなさい。

   父が怒ってしまって...。

   取りつく島もないわ....。

   なんの力にもなれなかったね。

   蓮見さん、これからどうするの?」



母は無理矢理作った笑顔で応える。


「ありがとうございます。

   本当にありがとうございます...。

   却って貴女に嫌な思いをさせて

   ごめんなさい。

   そこまでして頂いて

    もう十分よ...。


    本当にありがとうございました...。


    私、これから神山のお父様の

    自宅に直接お会いしに行って

    お願いしてくる...。」



「大丈夫?

   私も一緒に行こうか...?」


神山さんが心配そうに

母の顔を覗き込む。


「大丈夫。

    心配してくれてありがとう。

    落ち着いたら

   必ず家族でお礼を言いに来るね...。

   久しぶりに会えて嬉しかった...。」


母は神山さんの父親の家を向かい

歩き始める。

春の日差しはどこまでも優しい。


1980年3月27日。

困窮する母、私達家族に

手を差し伸べてくれた人が

確かに居たのだ。